劣等感に苛まれるアラサー。ライブに参戦して落ち込む。

エッセイ

先日、私は一人ライブ会場に向かっていた。

ライブに行くのなんて、どれくらいぶりだろう。

学生の頃は他県に遠征などをして、よくライブ会場に足を運んでいたものだ。

その時は友人であったり、ネットで知り合ったSNSのフォロワーであったり、そういった仲間たちと参戦していたことを思い出す。

だからこそ、この日は一人ライブ会場に向かう自分がなんだか心細かった。

私がこの日、ライブに行こうと思ったのはなんとなくだった。

恋人と別れ、することも無くなったため、なんとなく心の隙間を埋めたかった。

そんなタイミングで、10年前に追っかけていたアーティストがライブをするというので、

近場だし行ってみるかと安易な気持ちで参戦を決めた。

もちろん、当時のペンライトやグッズなどはもう持っていない。私はアリーナのライブだというのに手ぶらで参戦したのだ。

開場し、席についてみると、もちろん周りのファンたちは皆グッズやらペンライトやらを持参していた。

ペンライトだけでもせめて買ってくるべきだったかと、少しだけ思ったけれど

そのペンライトが「アーティストに対する熱量を表現するため」ではなく「周囲と馴染むため」なのであれば必要ないかと思い、ペンライトのことは忘れることにした。

私の思考の癖。劣等感。

アリーナでのライブ。

10年前はこんなに大きなキャパのライブ会場じゃなかったのに。

更に人気になったのだなぁとしみじみ思う反面、私の良くない思考の癖が出てきた。

(・・・この10年、私は何をしてきたのだろう)

私の10年前といえば高校3年生だ。

受験勉強もろくにしないでふらふらとしていた。大学に進学させてもらったもののろくに勉強もしなかった。ただ夢を語るばかりで、具体的に実行に移せない人間だった。

なに、過去を振り返って自虐したい訳ではないのだが、この10年を思い返して褒められるような点があるだろうか。

そんな点はないというのが事実である。

席に座ってからしばらく経ち、照明が暗くなった。

ライブが始まり、沸き立つ観客とは反して、私の気持ちは冷めていくようだった。

私の悪い癖だ。すぐ他人と比べてしまう。

比べる対象が、友人だろうが芸能人だろうがなんだろうが最早関係ないのだ。「現在の自分」以外は全て比較対象になってしまうのだ。

アーティストは歓声を浴びながら輝かしくパフォーマンスを始めた。

昔は小さいライブ会場で、なんなら握手会や直接話せる機会があるほどの規模のライブだったのに。

・・・羨ましかった。

もちろん、相応の努力をしてきたからこその今の人気なのもわかっている。

羨む暇があるならば、私も相応の努力をすればいい。

わかっていても、なんだか虚しくて。

「羨ましい」「妬ましい」と思う自分を自覚すれば更に、浅ましく醜い自分の「ある意味人間らしい」汚さを容赦なく眼前に突きつけられるようだ。

私は、ライブが全て終わる前に席を立った。

帰りの電車が混むのが嫌だから、という理由を盾に会場を出たが、本音は最後まで見ていられない自分の弱さが勝っただけだろう。

目標という光。

帰りの電車の中、私は揺られながら色々なことを考えた。

「自分の醜さはわかった。もうわかったから。私は醜い人間です。はい」

というので終わらせていては何の実りもない。

どうすればこの羨ましく、妬ましく思う感情は無くなるのか。

それはやはり自分が満足するレベルに到達するしかない。

やり切ったと言えるくらい努力するしかない。そう思う。

私は元来負けず嫌いな人間だから、もうそうやって生きるしかないのだ。

勉強しよう、なりたい自分になれるように努力しよう。

たとえ無駄だと周りに言われようとも、それで自分の弱い心が救われるなら、

私は私の心を救うために前に進まなければと思った。

ライブで華々しく輝いていたアーティストも、欠点がないように見えるあの人も、

みんな人間だから完璧ではないはずなのだ。

欠けたところを見せないようにしているだけ。もしくは盲目的になっていて欠点が見えなくなっているだけであって。

だからこそ、私も「完璧」はもちろん無理だから、せめて輝いている人でありたいと思う。

私にとって「目標」とは「光」だ。

「目標」に向かっていれば輝いていられる。

その「目標」がたとえ手が届かなくても、その「光」を享受し続けたいと思う。

さぁ、そうと決まれば今日から行動だ。

なんと言っても「今日が一番若い」のだから。

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